【朗読台本】オリフィスの闇 -外伝、飲鴆止渇(いんちんしかつ)-
- 朗読台本
- 上演目安:15分
声劇台本を朗読台本に改変した作品になります。
必ずご一読お願いします。
【朗読台本】オリフィスの闇 -外伝、飲鴆止渇(いんちんしかつ)-
人間という生き物は、どうしてこれほどまでに「忘却」に長けているのでしょうか。
喉元を過ぎれば熱さを忘れる。それは生存のための知恵なのか、あるいは神に対する傲慢の始まりなのか。
かつてこの地が、ひび割れた大地を這いずり回るほどの干ばつに喘いでいた頃、先祖たちは天に縋り、神に雨を乞いました。神は雨を与え、里を救った。その代わりに交わされたのは、「秋の実りを捧げ、神に感謝の祈りを捧げる」という、他愛もないはずの約束でした 。
しかし、潤った土はやがて実りをもたらし、喉の渇きが癒えれば、天への畏れも水底へと沈んでいく。
祈りは途絶え、社は形骸と化し、約束は塵芥(ちりあくた)となって風に消えました 。
……嵐が来る前。あの日、空には雲ひとつありませんでした。
紀平(きへい)様の娘、水連(すいれん)は、水たまりに反射する陽の光を見て「地面にも空があるようです」と無邪気に笑っていました。
風には土と草の甘い香りが混じり、世界は永遠に続く穏やかさに満ちていたのです 。
白(ハク)は、そんな彼女の隣で、自分の不器用さを噛み締めていました。嘘がつけない。気の利いたお世辞のひとつも言えない。そんな俺の性質を、水連は「安心する」と言って慈しんでくれました 。
白(ハク)は、親父の小刀を借りて、こっそりと木彫りの稽古を始めていました。いつか、あの日を閉じ込めたような美しいかんざしを、彼女に贈るために 。
目に見えない神様よりも、自分たちの手で耕した畑や、今見上げている青空の方が、よっぽど信じられる。
だから、神様なんかに祈らなくても、俺がお前を守ってやる。
あの時、心からそう告げた言葉に、一点の曇りもなかったのです 。
やがて、雨が降り始めました。
最初は誰もが、ただの恵みの雨だと思い、次に、少しばかり長い雨だと高を括っていました。
しかし、里を覆う鈍色の雲は、いつまで経っても晴れる気配を見せません。
陽の光を奪われた土は腐り、麦は根から溶け落ちていく。泥水は人々の家を削り、生ぬるい絶望が、じわじわと生きとし生けるものの首を絞め上げました 。
美しい絆など、僅かな飢えで容易く千切れる蜘蛛の糸に過ぎない。昨日まで笑い合っていた隣人たちが、食料を巡って殴り合い、自分を助けられない神主の紀平様を呪い、罵声を浴びせる。泥に塗れ、自分だけが助かろうと醜く抗う姿。それが、平和という仮面の下に隠されていた「真実」でした 。
白(ハク)は、村の男たちに詰め寄られ、「明日は晴れるのか」と問われました。
嘘でもいいから「晴れる」と言ってやれば、彼らの心は救われたのかもしれない。けれど、彼には嘘がつけない。川の水が溢れ、堤が決壊しかけている現実を前に、気休めを言う力さえなかったのです 。
紀平様は、神社の奥深くに封じられていた古い木簡を読み解き、顔を青ざめさせました。
『飲鴆止渇(いんちんしかつ)』。
喉の渇きを癒すために、死ぬと分かっている猛毒を飲むこと。
先祖たちが渇きから逃れるために捧げた祈りは、今になって里を飲み込む毒となり、罰となって降り注いでいたのでした 。
雨を止める術を求め、俺と紀平様は神坐川(かみくらがわ)の祠へと向かいました。
足場は泥濘(ぬかる)み、一歩間違えれば濁流へ呑み込まれる道中。祠の聖域に足を踏み入れた瞬間、不気味なほどに「音」が消えました。
まるで冷たい水の中に沈められたような、息苦しいほどの静寂。そこには、人ならざる双子の水神、高龗(たかおかみ)と闇龗(くらおかみ)が座していました。
神の理(ことわり)は、あまりにも残酷でした。崩壊した理を再び繋ぎ止めるには、新たな『楔(くさび)』が必要である。子の炎に焼かれた母の死を嘆いた父が、その子の首を刎ねた血溜まりから生まれた我らに対し、再び「子が親の罪を被る」という理をもって契約を更新せよ、と神は言いました。
器として選ばれたのは、水連でした。
白(ハク)は叫びました。棒を振りかざし、神に抗おうとしました。けれど、人間の一生など神にとっては瞬きのようなもの。
理不尽を理不尽と怒ったところで、決壊した堤から溢れる水の勢いを止めることはできません 。
そこへ、水連が現れました。
彼女の髪には、俺が不器用に、けれど心を込めて彫り上げた「睡蓮のかんざし」が差されていました 。
「私が犠牲にならなければ、里の皆が死んでしまう。それが真実であるなら、私は迷わずに道を選べる」
そう語る彼女に、俺は何も言えませんでした。
あんなに「本当のことしか言えねえ」と豪語していた白(ハク)が、彼女を救うための嘘ひとつ、神を欺くような方便ひとつ、口にすることができなかったのです 。
水連は祠の淵に立ち、最後のお別れを告げました。
彼女が残した言葉は、神への祈りではありませんでした。
俺をこの現世(うつしよ)に縛り付け、絶対に死なせないための、彼女からの「呪い」だったのです 。
「愛しています。あなたがいつか、その真実の言葉で、私を見つけ出してくれる、その日まで」
その言葉を最後に、彼女は冷たい水底へと消えていきました 。
その瞬間、俺の中にあった何かが砕け、同時に鋼のような何かが生まれました。
「どんなに悠久の刻を越えても、何百年、何千年かかろうとも。必ず、お前を見つけ出す。俺の魂のすべてをかけて、お前を奪い返す」
それは、嘘がつけない俺の、生涯でたった一度きりの『真実の誓い』。
神が定めた理不尽な輪廻の渦を、俺という個の執念で捻じ曲げてやるという、宣戦布告でした 。
……雨は上がりました。
雲の隙間から差し込んだひと月ぶりの陽の光は、あまりにも明るく、けれど無慈悲に里の惨状を照らし出しました。里の中心部は巨大な湖となり、多くの命が水底へと沈みました 。
神は、これからも五十年に一度、新たな「姫巫女」を生贄として捧げ続けることを里の人々に強いました。生贄による鎮魂と、舞による感謝。それが神と交わされた新たなる『盟約』の形となったのです 。
紀平様は、愛する娘を奪われ、さらに残された娘にまで生贄を産み育てる役割を押し付けられた運命に、絶望し、立ち尽くしていました。
けれど、白(ハク)は決めました。
神を敬うふりなんて、俺にはできない。俺は里を出る。
京へ行き、この嘘のつけない「言葉」を研ぎ澄まし、
いつか神の理を根底からひっくり返すための力を蓄えようと 。
砂時計の砂は、今も落ち続けています。高(たか)から、闇(くら)へ。
けれど、決して抗えないはずの輪廻の渦の中で、
一人の男が、永遠に終わらない反逆の物語を書き始めました 。
血筋を変え、名前を変え、魂の形が俺でなくなったとしても。
俺の末裔が、いつか必ず。
「……水連。必ず、お前を救い出す。」
【終】
©しののめ。
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